【親父】
高校1年の夏休み、
両親から「大事な話がある。」
と居間に呼び出されたんだ。
親父が癌で、もう手術では治りきらない状態であると。
暑さとショックで、頭がボーっとしてて、変な汗が出たのを憶えている。
当時、うちは商売をしていて、借金も沢山あった。
親父が死んだら、高校に通えるわけがないことは明白だった。
そして俺はお世辞にも優秀とはいえなかった。
クラスでも下位5番には入ってしまう成績だった。
その夏から、親父は、抗がん剤治療を開始し、入退院を繰り返していった。
メタボ体型だった親父が、みるみる痩せこけていった。
母親の話では、主治医の見立てでは、もって1-2年だろう、ということだった。
ただ、親父は弱音を吐くことはなかった。
親父は「高校、大学はなんとかしてやるから、しっかり勉強しろよ」って言ってたよ。
仕事もやりながら、闘病生活を続けていた。
俺といえば、目標も特になく、高校中退が頭にチラついて勉強は進まなかった。
ただ、ボーっと机に向かって、勉強するフリだけはしていた。
せめて親父を安心させるためだったと思う。
だから、その後の成績も、とても期待に添えるものではなかった。
ただ、親父の「高校、大学はなんとかしてやる」の言葉が、重かった。
「おまえ、将来、何かやりたいことはないのか?」
高校2年の冬、痩せこけた親父に問いかけられた。
俺は、期末テストで学年ビリから2番をとり、担任からも進路について厳しい話をされていた。
言葉もない俺に、怒ったような泣いたような顔で親父は言った。
「・・・ないなら、、医者になれ!・・・勉強して、医者になって、おれの病気を治してくれ!」
上手く説明できない熱い感情に、頭をガツンと打たれた。
自分への情けなさとか、怒りとか、色々混じったものが込み上げた。
その時、親父には返事を返すことはできなかったが、俺は決意した。
それから、猛烈にがむしゃらに勉強した。
高校3年の夏、親父は逝った。
親父は、闘病生活の2年間で借金を整理し、俺の高校の学費をなんとか工面したそうだ。
親父のおかげで、高校卒業できた。
そしてありがたいことに、1年間の浪人生活を経て、俺は地方の国立大学の医学部に合格した。
俺は今、癌専門治療医として働いている。
親父は、
「あいつは、将来おれの病気を治してくれるんだ」
と母に言ってたそうだ。
まだ、親父の癌を治す力はないが、日夜頑張っているよ。
いつか、親父の癌を治せるように。
—————————————
やる気の出ない息子への、お父さんの喝。
お父さんの息子への最後のメッセージだったんですね。
胸が熱くなってしまいました。
一生懸命に頑張って癌専門治療医になった息子さん・・
お父さんはきっと「よくやった」と思ってくれているでしょう。
高校1年の夏休み、
両親から「大事な話がある。」
と居間に呼び出されたんだ。
親父が癌で、もう手術では治りきらない状態であると。
暑さとショックで、頭がボーっとしてて、変な汗が出たのを憶えている。
当時、うちは商売をしていて、借金も沢山あった。
親父が死んだら、高校に通えるわけがないことは明白だった。
そして俺はお世辞にも優秀とはいえなかった。
クラスでも下位5番には入ってしまう成績だった。
その夏から、親父は、抗がん剤治療を開始し、入退院を繰り返していった。
メタボ体型だった親父が、みるみる痩せこけていった。
母親の話では、主治医の見立てでは、もって1-2年だろう、ということだった。
ただ、親父は弱音を吐くことはなかった。
親父は「高校、大学はなんとかしてやるから、しっかり勉強しろよ」って言ってたよ。
仕事もやりながら、闘病生活を続けていた。
俺といえば、目標も特になく、高校中退が頭にチラついて勉強は進まなかった。
ただ、ボーっと机に向かって、勉強するフリだけはしていた。
せめて親父を安心させるためだったと思う。
だから、その後の成績も、とても期待に添えるものではなかった。
ただ、親父の「高校、大学はなんとかしてやる」の言葉が、重かった。
「おまえ、将来、何かやりたいことはないのか?」
高校2年の冬、痩せこけた親父に問いかけられた。
俺は、期末テストで学年ビリから2番をとり、担任からも進路について厳しい話をされていた。
言葉もない俺に、怒ったような泣いたような顔で親父は言った。
「・・・ないなら、、医者になれ!・・・勉強して、医者になって、おれの病気を治してくれ!」
上手く説明できない熱い感情に、頭をガツンと打たれた。
自分への情けなさとか、怒りとか、色々混じったものが込み上げた。
その時、親父には返事を返すことはできなかったが、俺は決意した。
それから、猛烈にがむしゃらに勉強した。
高校3年の夏、親父は逝った。
親父は、闘病生活の2年間で借金を整理し、俺の高校の学費をなんとか工面したそうだ。
親父のおかげで、高校卒業できた。
そしてありがたいことに、1年間の浪人生活を経て、俺は地方の国立大学の医学部に合格した。
俺は今、癌専門治療医として働いている。
親父は、
「あいつは、将来おれの病気を治してくれるんだ」
と母に言ってたそうだ。
まだ、親父の癌を治す力はないが、日夜頑張っているよ。
いつか、親父の癌を治せるように。
—————————————
やる気の出ない息子への、お父さんの喝。
お父さんの息子への最後のメッセージだったんですね。
胸が熱くなってしまいました。
一生懸命に頑張って癌専門治療医になった息子さん・・
お父さんはきっと「よくやった」と思ってくれているでしょう。
【真の勝者】
つい最近「ミラー細胞」
というものが見つかり、
脳医学で注目されている。
どんな細胞かというと、
そばにいる人と同じ表情をしたり、
相手の感情をそのまま反射したりする。
つまり、
相手の気持ちを鏡のように反映する細胞。
ということは、
相手に思いやりの気持ちを向けると、
相手もこちらの気持ちに
シンクロ(同調)するということになります。
相手が「ありがとう」と言ってくれたら
自分も「こちらこそありがとう」という気持ちがわいて来る。
そうさせるのがミラー細胞。
このニュースを聞いて著者は
2007年夏の全国高校野球大会で
優勝した佐賀北高校のことを思い出したとのこと。
佐賀北高校は勉強に熱心な県立高校で、
チームも全国から野球エリートを
かき集めて作ったわけではありません。
その佐賀北高校、
試合中に相手チームを褒めるのです。
例えば、
相手チームがカーンとヒットを打ったとします。
すると、佐賀北の一塁手は、
塁に立った相手走者に言うんです。
「ナイスバッティング」
二塁を打った相手には、二塁手が
「素晴らしいですね」
と褒めます。
一方、打撃に入って三振をとられると、
相手のピッチャーに
「ナイスピッチング」
と声を掛けます。
普通は、こんな事は絶対にないでしょう。
佐賀は結局一度も負けず、
優勝しましたが、
佐賀と対戦して敗れたチームは
みんな佐賀北のファンになってしまう。
そして、勝つたびに佐賀北は
多くの応援団をつけ、
県立高校としては
11年振りの甲子園全国優勝を果たした。
この話はミラー細胞のお話と合致する。
たくさんの人から応援されていると思うと、
なおのことパワーが出る。
それがまた佐賀北を後ろから押し上げていきました。
いわば、プラスの相乗効果だった。
人との関係は、
まず相手を尊敬し受け入れることから始まる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
相手への尊敬を惜しまない彼らの姿勢は、
素晴らしい事ですね。
常に相手に敬意を払い、かけられて嬉しい言葉を
常に相手にかける。
それが実は自分のためにもなる。
スポーツ以外でも同じことが言えますよね。
褒めてほしければ、人を褒め、尊敬してほしければ人を尊敬する。改めて自分自身も行っていこうと感じさせてくれました。
つい最近「ミラー細胞」
というものが見つかり、
脳医学で注目されている。
どんな細胞かというと、
そばにいる人と同じ表情をしたり、
相手の感情をそのまま反射したりする。
つまり、
相手の気持ちを鏡のように反映する細胞。
ということは、
相手に思いやりの気持ちを向けると、
相手もこちらの気持ちに
シンクロ(同調)するということになります。
相手が「ありがとう」と言ってくれたら
自分も「こちらこそありがとう」という気持ちがわいて来る。
そうさせるのがミラー細胞。
このニュースを聞いて著者は
2007年夏の全国高校野球大会で
優勝した佐賀北高校のことを思い出したとのこと。
佐賀北高校は勉強に熱心な県立高校で、
チームも全国から野球エリートを
かき集めて作ったわけではありません。
その佐賀北高校、
試合中に相手チームを褒めるのです。
例えば、
相手チームがカーンとヒットを打ったとします。
すると、佐賀北の一塁手は、
塁に立った相手走者に言うんです。
「ナイスバッティング」
二塁を打った相手には、二塁手が
「素晴らしいですね」
と褒めます。
一方、打撃に入って三振をとられると、
相手のピッチャーに
「ナイスピッチング」
と声を掛けます。
普通は、こんな事は絶対にないでしょう。
佐賀は結局一度も負けず、
優勝しましたが、
佐賀と対戦して敗れたチームは
みんな佐賀北のファンになってしまう。
そして、勝つたびに佐賀北は
多くの応援団をつけ、
県立高校としては
11年振りの甲子園全国優勝を果たした。
この話はミラー細胞のお話と合致する。
たくさんの人から応援されていると思うと、
なおのことパワーが出る。
それがまた佐賀北を後ろから押し上げていきました。
いわば、プラスの相乗効果だった。
人との関係は、
まず相手を尊敬し受け入れることから始まる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
相手への尊敬を惜しまない彼らの姿勢は、
素晴らしい事ですね。
常に相手に敬意を払い、かけられて嬉しい言葉を
常に相手にかける。
それが実は自分のためにもなる。
スポーツ以外でも同じことが言えますよね。
褒めてほしければ、人を褒め、尊敬してほしければ人を尊敬する。改めて自分自身も行っていこうと感じさせてくれました。
「震災と向き合う12才の日記」
「お父さんが軽トラで
もどっていった姿を見ました。
津波にのみ込まれませんように。
そう祈っていました」
巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの日、
子供たちは何を見、その後をどう生きたのか。
岩手県山田町の町立大沢小学校を
3月に卒業した箱石佑太君(12)が
毎日小学生新聞に寄せた
体験日記には震災と向き合う姿が
率直につづられていた。
◇3月11日
卒業式の歌の練習をしていました。
とてもゆれの大きい地震が来ました。
最初は単なる地震だと思っていました。
大津波警報が出ても、
どうせこないと思っていました。
来たとしても10センチメートル程度の
津波だと思っていました。
全然違いました。ぼくが見たのは、
国道45号線を水とがれきが
流れているところです。
お母さんとお父さんが津波が来る前に
大沢小に来ているところは見ました。
だけどその後、
お父さんが軽トラで
もどっていった姿を見ました。
お父さんのことが不安でした。
車を運転しながら
津波にのみ込まれませんように。
そう祈っていました。
◇3月18日
津波から1週間。
お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、
まだお父さんが見えないとあきらめていました。
じいやんは泣いて
「家も頑張って建てるし、
おまえたちだってしっかり
学校にいかせられるように頑張るから、
お父さんがもしだめだとしても
頑張るからな」
と言っていました。
◇3月23日
卒業式でした。
「ありがとう」の歌を歌っている時、
お父さんに
「お父さん、
お父さんのおかげで卒業できたよ。
ありがとう」
と頭の中で言いました。
そしたらなぜか、
声がふるえて涙が少し出てきました。
その夜、こんな夢を見ました。
お母さんとお父さんが
宮古のスーパーマーケットから
帰ってきた夢でした。
◇3月25日
親せきの人の携帯に電話がかかってきました。
内容は、お父さんらしき人が
消防署の方で見つかったということでした。
急いで行ってみると、
口を開けて横たわっていた
お父さんの姿でした。
ねえちゃんは泣き叫び、
お母さんは声も出ず、
弟は親せきの人にくっついていました。
顔をさわってみると、
水より冷たくなっていました。
ぼくは「何でもどったんだよ」と
何度も何度も頭の中で言いました。
「おれがくよくよしてどうすんだ」
と自分に言いました。
でも、言えば言うほど
目がうるんでくるばかりです。
お父さんの身に付けていたチタン、
東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。
そして驚いたのが時計が動いていたことです。
お父さんの息が絶えた時も、
津波に飲み込まれている時も、ずっと。
お父さんの時計は
今はぼくのものになっている。
ぼくがその時計をなくしたりすることは
一生ないだろう。
◇3月26~27日
見つかった時のお父さんの顔。
まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。
でも見つかったおかげで火葬もできるし、
お父さんをさわることができた。
お父さんの体は水を飲んだのか
胸がふくらんでいるだけだ。
やっぱり見つかってよかった。
◇3月28日
きょうは火葬の日。
ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、
手紙を書いて、
お父さんと一緒に入れてやりました。
拝んでいる時ぼくは
「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」
と言いました。
お墓に骨を埋めるまで、
ぼくに骨を持たせてくれました。
骨をうめてホッとしました。
◇4月7日
きょうは、ありがたいと心から言える日でした。
お父さんとぼくたちの記事を見て、
お父さんが東京マラソンを走った時の
写真とお手紙を新聞の人が持ってきてくれました。
ぼくたち家族に贈る言葉や、
さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。
やっぱりお父さんはすごい。
今日は本当にありがたい日だ。
箱石君は25日、155人の仲間と一緒に
町立山田中学校に入学した。
日記は、大沢小の子供たちが
復興に立ち向かう様子を紹介する
「大沢からの報告」として
毎日小学生新聞に掲載。
「何回も読み、涙が止まりません。
皆様が少しずつでも
前に進める日がくることを願っております」
(2人の子を持つ東京都北区の女性)
とのメールが届くなど大きな反響を呼んだ。
震災から2年以上が経ちました。
あの日の事を忘れないためにも
是非、読んで頂きたい内容です。
少しでも多くの方に、このお話が届きますように・・・
寒い日に、
あの小柄なやせた
おばさんを思い出す
あのすばらしい人に
出会えたのは、
私がICUの待合室で
「ボー」としていた時だった。
その時間は
夜の10時を過ぎていた。
消灯時間も
過ぎていたので、
待合室の中は、
薄暗かった。
その人は、
固いソファに身を縮こませて
休んでいた。
私が缶のお茶を飲んでいると、
突然「ムクッ」と起き出し
私の顔を「ジィー」と見つめ
「あそこにいる
みぃーぐるぐるしている子は、
あんたの子供か?」と聞く
「はい、そうです。」と言うと
「あの子は、
生きる子供だから、
あんた頑張りなさいね。
母親の気持ちは、
必ず伝わるさー。
大変だけど、
頑張るしかないさー。」と
言う。
私は、突然の言葉に
「アッ、はい、頑張ります。」と
答えた。
その人は60代後半、
白髪交じりで細く、
手を見るとシワシワで
苦労している手に見えた。
その表情から、
人柄の良さを感じた。
「おばさんは
どうしてここにいるんですか?
誰か身内の方が
入院しているんですか?」と
聞くと
「四女が入院しているさー。」と言う
「おばさんもね
いろんなことが一度にたくさん来て、
死のうと思ったときも
何回もあったよ。
でも死なんかったさー。」
「人間あまりにつらいと、
涙もかれて、出なくなるね。」
・・・おばさんの話は・・・
彼女は、結婚し
4人の女の子に恵まれ、
ごく平凡な人生を送っていた。
子供たちも大きくなり
一番下の子は、
看護婦になりたいということで
大阪の学校へ。
淋しいと思ったが、
うえの子3人も
家にいるので
「まぁ、本人が
好きなところにいって
勉強すればいいさ。」と
思い賛成したとのこと。
2年たったある日、
夫が腰の痛みを訴える。
そこで病院嫌いな、
夫を説得し、
近くの整形外科を受診。
仕事の疲れが腰に来ているのだ
ということで、
湿布薬をもらい帰るが、
症状は、一向によくならず。
そこで、
大きな病院で診てもらうことに。
その病院で言われたことが
「手遅れですね。
手術もできない癌の末期です。
痛みを取り除くしか
今のところはないです。
会わせたい人がいたら、
あわせてあげなさい。」と
その言葉を、彼女は聞き、
「エー・・・何かの間違いでしょう。」と
思ったとのこと。
今まで
病気らしい病気もせず、
元気に自分達のため、
朝昼晩働いてきた夫、
それが、後わずかな命だと
誰が信じようか。
彼女は、
夫に正しい病名は言えず、
痛がる夫のそばに付き添い、
娘たちと相談して、
大阪にいる娘を
呼び寄せたとのこと。
知らせを受け、
四女はすぐに、
沖縄に戻ってきた。
父親に会う前に、
ナント喘息発作を起こし、
四女も父親と一緒の病院に
入院することになる。
母親である彼女は、
夫と娘の病室を
行ったりきたりしているうちに、
四女の状態も快方に向かい
明日退院という話になったそうだ。
皆で喜んでいるのもつかの間
その四女が突然倒れ、
脳内出血をおこす。
すぐにでも手術が必要といわれる。
そのころ夫は、
自分の病名も
はっきり知らされていないため
治ることを信じ、
痛みと戦い続ける。
しかし体力は次第に衰え、
がん細胞は、
着実に夫の体を蝕んでいく。
自分の身を
休ませることもできず、
精神的にも身体的にも
参っているときに、
なんと今度は、
長女が倒れる。
看護の疲れから
その長女も喘息発作を起こす。
彼女はそのとき
「死のう、死にたい。」と思ったと
涙ながらに話してくれた。
「人間死にたいと思っても
死ねないね。
なぜ、神様、私は、
何も悪いこともしていないのに
何で自分だけ、
こんな苦しい目に
合わなければならないのか、
なぜ?と思いながら、
毎日毎日泣いていたよ。」と
夫がなくなった日、
娘の手術日が重なり、
彼女は、そのとき初めて、
お手伝いさんを
雇ったと話してくれた。
時折、
涙を見せながら彼女は、
話し続けてくれた。
「あんな苦しいときから、
もう10年が過ぎたさー。
人間、
どんな苦しいときがあっても、
乗り越えられるように
なっているんだね。」
「娘や兄弟、
隣近所の人が助けてくれたよー
ありがたいさー。
今はこの四女と一緒に
2人で住んでいるさー。」
「この四女も
命も危なかったけど、
何とか命拾いをして
生きているサー
麻痺があって、
歩けない
何もできないと言われたけど、
リハビリのおかげで、
何とか杖を使って歩けるし、
自分でご飯も
食べれるようになったよ。」
「この四女がいるおかげで
私は生きていられるサー
四女は、
ここ10年調子よかったんだけど、
また昨日調子が悪くなって、
ここにお世話になっているサー。」
「人口呼吸器をしているけど
意識がもどっってきたから、
さっき面会してきたサー。」
そのときに、
その子に向かって
「・・・ちゃん、ごめんね。
母ちゃんは、
あんたを元気に
生んだつもりだったのに、
こんなに苦しい目にばっかりあって
何のために
あんたは生まれてきたのかね
ごめんね、
母ちゃんは、
あんたを
生まなければよかったね。」
とその四女に話したそうだ。
その四女は、
母の話を「ジィー」と聞き
人口呼吸器を
つけているにもかかわらず、
その四女が
「母・ち・ゃ・ん・の・バ・カ、
何・で・そ・ん・な・こ・と・を・
言・う・の、
わ・た・し・は
母・ち・ゃ・ん・の・子・供・で・
よ・か・っ・た・ん・だよ。
う・ま・れ・て・き・て・
よ・か・っ・た・ん・だ・よ」と
「それを聞いて、
涙が出てね。
もう二度と、
娘の前でそういう言葉を
出すものじゃないねーと
思ったさー。」
彼女の言葉を
聴くうちに、
私も涙が後から、あとから、
あふれ出していた。
四女の言った言葉が、
心にしみた。
彰も、
そういっているような気がして
涙が止まらなかった。
次の日、
待合室に行ったら、
彼女の姿はなかった。
元気になって、
一般病室に移ったとのこと。
彼女が、休んでいた
硬いソファに、
彼女が読んでいた本が
「そぉー」と置いてあった。
「苦難や困難は
逃避するために
あるのではなく
克服するために
あるのだと・・・」
彼女に会えた私は、
とても元気になった。
もしかしたら
彰が私のために、
彼女を
連れてきたんだろうと思った。
四女の口をかりて、
彰が、私に伝えたかった
言葉だとあの時、
そう感じた。
そう思ったときから、
彰に対して、
『・・・彰、
この世に
苦しむためだけに
生まれてきたの?」という
思いを捨てた。
彰はたくさんの
喜びを得るために
この世に生まれてきたのだと。
「そうだよね、彰。』
…………………………..
出典:yume.cocoro
…………………………..
本当に苦しいとき
悲しいとき、
なぜ私だけ
こんな思いを
しなければならないのか・・
そう考えてしまいます。
でも、そうじゃない
生まれた事には
意味があって
それ自体が
素晴らしいものだと
感じました。
生まれたからこそ
たくさんの人と出逢い
多くの事を学び
悲しみや、困難を
克服し
楽しみや喜びを
分かち合える。
素敵なことですね。
あの小柄なやせた
おばさんを思い出す
あのすばらしい人に
出会えたのは、
私がICUの待合室で
「ボー」としていた時だった。
その時間は
夜の10時を過ぎていた。
消灯時間も
過ぎていたので、
待合室の中は、
薄暗かった。
その人は、
固いソファに身を縮こませて
休んでいた。
私が缶のお茶を飲んでいると、
突然「ムクッ」と起き出し
私の顔を「ジィー」と見つめ
「あそこにいる
みぃーぐるぐるしている子は、
あんたの子供か?」と聞く
「はい、そうです。」と言うと
「あの子は、
生きる子供だから、
あんた頑張りなさいね。
母親の気持ちは、
必ず伝わるさー。
大変だけど、
頑張るしかないさー。」と
言う。
私は、突然の言葉に
「アッ、はい、頑張ります。」と
答えた。
その人は60代後半、
白髪交じりで細く、
手を見るとシワシワで
苦労している手に見えた。
その表情から、
人柄の良さを感じた。
「おばさんは
どうしてここにいるんですか?
誰か身内の方が
入院しているんですか?」と
聞くと
「四女が入院しているさー。」と言う
「おばさんもね
いろんなことが一度にたくさん来て、
死のうと思ったときも
何回もあったよ。
でも死なんかったさー。」
「人間あまりにつらいと、
涙もかれて、出なくなるね。」
・・・おばさんの話は・・・
彼女は、結婚し
4人の女の子に恵まれ、
ごく平凡な人生を送っていた。
子供たちも大きくなり
一番下の子は、
看護婦になりたいということで
大阪の学校へ。
淋しいと思ったが、
うえの子3人も
家にいるので
「まぁ、本人が
好きなところにいって
勉強すればいいさ。」と
思い賛成したとのこと。
2年たったある日、
夫が腰の痛みを訴える。
そこで病院嫌いな、
夫を説得し、
近くの整形外科を受診。
仕事の疲れが腰に来ているのだ
ということで、
湿布薬をもらい帰るが、
症状は、一向によくならず。
そこで、
大きな病院で診てもらうことに。
その病院で言われたことが
「手遅れですね。
手術もできない癌の末期です。
痛みを取り除くしか
今のところはないです。
会わせたい人がいたら、
あわせてあげなさい。」と
その言葉を、彼女は聞き、
「エー・・・何かの間違いでしょう。」と
思ったとのこと。
今まで
病気らしい病気もせず、
元気に自分達のため、
朝昼晩働いてきた夫、
それが、後わずかな命だと
誰が信じようか。
彼女は、
夫に正しい病名は言えず、
痛がる夫のそばに付き添い、
娘たちと相談して、
大阪にいる娘を
呼び寄せたとのこと。
知らせを受け、
四女はすぐに、
沖縄に戻ってきた。
父親に会う前に、
ナント喘息発作を起こし、
四女も父親と一緒の病院に
入院することになる。
母親である彼女は、
夫と娘の病室を
行ったりきたりしているうちに、
四女の状態も快方に向かい
明日退院という話になったそうだ。
皆で喜んでいるのもつかの間
その四女が突然倒れ、
脳内出血をおこす。
すぐにでも手術が必要といわれる。
そのころ夫は、
自分の病名も
はっきり知らされていないため
治ることを信じ、
痛みと戦い続ける。
しかし体力は次第に衰え、
がん細胞は、
着実に夫の体を蝕んでいく。
自分の身を
休ませることもできず、
精神的にも身体的にも
参っているときに、
なんと今度は、
長女が倒れる。
看護の疲れから
その長女も喘息発作を起こす。
彼女はそのとき
「死のう、死にたい。」と思ったと
涙ながらに話してくれた。
「人間死にたいと思っても
死ねないね。
なぜ、神様、私は、
何も悪いこともしていないのに
何で自分だけ、
こんな苦しい目に
合わなければならないのか、
なぜ?と思いながら、
毎日毎日泣いていたよ。」と
夫がなくなった日、
娘の手術日が重なり、
彼女は、そのとき初めて、
お手伝いさんを
雇ったと話してくれた。
時折、
涙を見せながら彼女は、
話し続けてくれた。
「あんな苦しいときから、
もう10年が過ぎたさー。
人間、
どんな苦しいときがあっても、
乗り越えられるように
なっているんだね。」
「娘や兄弟、
隣近所の人が助けてくれたよー
ありがたいさー。
今はこの四女と一緒に
2人で住んでいるさー。」
「この四女も
命も危なかったけど、
何とか命拾いをして
生きているサー
麻痺があって、
歩けない
何もできないと言われたけど、
リハビリのおかげで、
何とか杖を使って歩けるし、
自分でご飯も
食べれるようになったよ。」
「この四女がいるおかげで
私は生きていられるサー
四女は、
ここ10年調子よかったんだけど、
また昨日調子が悪くなって、
ここにお世話になっているサー。」
「人口呼吸器をしているけど
意識がもどっってきたから、
さっき面会してきたサー。」
そのときに、
その子に向かって
「・・・ちゃん、ごめんね。
母ちゃんは、
あんたを元気に
生んだつもりだったのに、
こんなに苦しい目にばっかりあって
何のために
あんたは生まれてきたのかね
ごめんね、
母ちゃんは、
あんたを
生まなければよかったね。」
とその四女に話したそうだ。
その四女は、
母の話を「ジィー」と聞き
人口呼吸器を
つけているにもかかわらず、
その四女が
「母・ち・ゃ・ん・の・バ・カ、
何・で・そ・ん・な・こ・と・を・
言・う・の、
わ・た・し・は
母・ち・ゃ・ん・の・子・供・で・
よ・か・っ・た・ん・だよ。
う・ま・れ・て・き・て・
よ・か・っ・た・ん・だ・よ」と
「それを聞いて、
涙が出てね。
もう二度と、
娘の前でそういう言葉を
出すものじゃないねーと
思ったさー。」
彼女の言葉を
聴くうちに、
私も涙が後から、あとから、
あふれ出していた。
四女の言った言葉が、
心にしみた。
彰も、
そういっているような気がして
涙が止まらなかった。
次の日、
待合室に行ったら、
彼女の姿はなかった。
元気になって、
一般病室に移ったとのこと。
彼女が、休んでいた
硬いソファに、
彼女が読んでいた本が
「そぉー」と置いてあった。
「苦難や困難は
逃避するために
あるのではなく
克服するために
あるのだと・・・」
彼女に会えた私は、
とても元気になった。
もしかしたら
彰が私のために、
彼女を
連れてきたんだろうと思った。
四女の口をかりて、
彰が、私に伝えたかった
言葉だとあの時、
そう感じた。
そう思ったときから、
彰に対して、
『・・・彰、
この世に
苦しむためだけに
生まれてきたの?」という
思いを捨てた。
彰はたくさんの
喜びを得るために
この世に生まれてきたのだと。
「そうだよね、彰。』
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出典:yume.cocoro
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本当に苦しいとき
悲しいとき、
なぜ私だけ
こんな思いを
しなければならないのか・・
そう考えてしまいます。
でも、そうじゃない
生まれた事には
意味があって
それ自体が
素晴らしいものだと
感じました。
生まれたからこそ
たくさんの人と出逢い
多くの事を学び
悲しみや、困難を
克服し
楽しみや喜びを
分かち合える。
素敵なことですね。