鈴鹿市 美容院 ヘアサロン カットハウスサロック

涙が止まらない(美容師としてかけがえのないこと)

「おばちゃんのおまじない」


このお話はある美容師が体験した実話です。

それまで知らなかった。
自分の仕事で人の命を永らえる事が出来るなんて。

今から10年前。
私の父は生きて退院する人の方が少ない病棟にいた。

病名はガン。
そのフロアには、他の病棟では
もう見られないほどの
末期の患者さんがたくさんいた。

男性、女性とも同じフロアで、
ただ先生の言葉にしたがい
希望のない明日におびえて生きていた。

今まで病気一つした事のない父は、
その中で異質な程明るかった。

自然と言葉を交わす人達が増え、
見舞いに行く私にも
気さくに話かけてくれるようになった。

ある日父が言った。
「頭がかゆい」

そのフロアの中央にナースセンターと並んで
サロンにあるようなサイドシャン用のシャンプー台があった。

そのフロアの住人達は皆、
首から上の大手術をした患者ばかり。
私の父も、線路のような長く大きい生々しい傷があった。

「他に出来ることないかなぁ…」
先生に尋ねてみることにした。

予想に反して「OK」がでた・・・
出てしまった・・・。

実を言うと傷にシャンプーをつけるのが・・・
傷を触るのが・・・
ちょっと恐ろしかった。

腹をくくった。
いつも通りに仕事をしてると思えばいい。

ただ痛いといけないから水圧も洗い方もちょっと弱めに。

指が傷に触れた。
ちょっと動揺した。
「心配するなー。気持ちいぞー。」
父が言った。

アシスタントの時ですらかかなかった
何ともいえない汗を
Tシャツがビショビショになるほどかいていた。

ふと気づくと、娘にいつもお菓子をくれるおばちゃんが立っていた。

「やだー。あんた美容師さんだったのー!!」

こんな所にいなきゃ病人だとは絶対に思えない、
そのおばちゃんが大きな声で笑って言った。

次の週。
見舞いに行くと
シャンプーの予約が6件も入っていた。
女の人ばかりだった。

彼女たちは手術のために頭を半分、
丸坊主にされているという
何とも言えないスタイルだったが、やはり女性。

「きれいにしていたい」

と言った。

シャンプーをしている間、彼女達は実によくしゃべった。

色々な事を話してくれた。
あっけらかんと笑いながら、
自分の残された時間までも。

週が重なるごとに
週1回では間に合わない位、
シャンプーの予約が入り、
私は売れっ子の様だった。

それから1ヶ月。

大きな声のそのおばちゃんは死んだ。

前日仕事場に父から電話があり

「おばちゃんがどうしても頭やってくれってきかない」

と言われ、仕方なく道具をもって病院に行った。

確かに図々しいおばちゃんだが、
無理難題を言う人じゃなかった。

不思議に思いながら
いつも通りシャンプーをした。
傷にはもう慣れていた。
だから手が雑だったんだろう。

おばちゃんは私に何度も洗い直しをさせた。

「おいおい私はシャンプーギャルじゃないんだからさぁ・・・」

心の中では思っていた。
すると、おばちゃんが言った。

「シャンプーしてもらってるとさぁ・・・
やってくれてる人の心の中の声って聞こえちゃんだよねー。
今、カンベンしてよって思ってんでしょう。
聞こえちゃったもんねー。
まあさぁ、私にとっちゃこれが人生最後の美容院なんだから、
あきらめて頑張って洗いなぁ!ガッハッハ」

息が詰まった。同時に正直

「このやろう!やってやろうじゃん!」

とも思った。

余計なことはいっさい考えなかった。
初めてその人のためにだけ無心でシャンプーした。

シャンプーが上がったおばちゃんは、こうも言った。

「私さぁ、本当ならもうとっくに寿命きれてんのよねー。
先生に言われたわぁー。
『岡田さんの娘さんに頭やってもらってたから、
寿命伸びたんじゃないの』ってねー。
最後に本当に心のこもったシャンプーをしてもらったし、
寿命まで伸ばしてもらって、
本当に感謝してるわぁー。ガッハッハ」

何にも言えなかった。
自分がした事が良い事だなんて、わからなかった。

ただ、おばちゃんのおかげで、
今まで自分は何と雑に仕事をしてきたのだろうと、ガクゼンとした。

洗いすぎて指先がフヨフヨになっていた。
おばちゃんはその手を見て、

「まだまだ綺麗な手。
そんな手、職人の手じゃないよー。
もっと荒れてごわごわになって、
そうしたら一人前だー。
見たかったけど残念だー。
でも、あんたは強い。
一生懸命、生きなさいよ。
人間、3分後に死んじゃうかもしれない。
心残りないように、
仕事も家庭も手を抜くんじゃないよ。
約束だからね。
破ったら化けて出るからね。ガッハッハ」

次の日の朝、おばちゃんは口紅をつけて死んでいった。

息子さんに

「ありがとうございます。
あなたのおかげで母は少しだけ欲張って生きました。」

と言われた。

父が死にそうになっても
泣かなかった私だが、
病院中に響き渡るほど大声で泣いた。

今、自分の手を見てみる。
今年で40才。
美容師はじめて21年。
まだまだ綺麗な手。
もっと荒れてゴワゴワにならないと。

心の声を聞かれても
困らないよう

「どうぞまた、この人と会えますように」

と願いながら仕事をしている自分がいる。

そんな自分が好きだ。
私は強い。
おばちゃんがかけてくれたおまじない。

もっと手が荒れて
ゴワゴワになったら一人前。

見てて、おばちゃん。
私はもっと頑張れる。

「感動シャンプー」
ある美容師とガッハッハおばちゃんの涙の物語

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おまじないによって、

さらに仕事の腕に磨きがかかった。

最期のシャンプー。

最期の会話。

最期の景色。

忘れられない話です。

涙が止まらない

「こどもたちよ ありがとう」


平野恵子さんは、三人の子どもに恵まれたお寺の坊守であった。

彼女が三十九歳の冬、お寺で新年を迎える準備をしていたとき、下腹部の激痛におそわれ、多量に下血した。

彼女はただならぬ重い病気であることをさとった。

あふれでる涙のなか彼女はこう思った。


「この目の前の現実は、夢でもなく、幻でもない。

間違いのない現実なのだから、決して逃げる訳にはゆかない。

きちんと見据えて対処してゆかなければ・・・」


彼女は癌の告知を受けて後、三人の子どもたちへ、母親としてあげられることは一体何だろうと考えた。

彼女は、死を前にした自分の願いを、こう記している。


「お母さんの病気が、やがて訪れるだろう死が、あなた達の心に与える悲しみ、苦しみの深さを思う時、申し訳なくて、つらくて、ただ涙があふれます。

でも、事実は、どうしようもないのです。

こんな病気のお母さんが、あなた達にしてあげれること、それは、死の瞬間まで、「お母さん」でいることです。

元気でいられる間は、御飯を作り、洗濯をして、できるだけ普通の母親でいること、徐々に動けなくなったら、素直に動けないからと頼むこと、そして、苦しい時は、ありのままに苦しむこと、それがお母さんにできる精一杯のことなのです。

そして、死は、多分、それがお母さんからあなた達への最後の贈り物になるはずです。

人生には、無駄なことは、何ひとつありません。

お母さんの病気も、死も、あなた達にとって、何一つ無駄なこと、損なこととはならないはずです。

大きな悲しみ、苦しみの中には、必ずそれと同じくらいのいや、それ以上に大きな喜びと幸福が、隠されているものなのです。

子どもたちよ、どうかそのことを忘れないでください。

たとえ、その時は、抱えきれないほどの悲しみであっても、いつか、それが人生の喜びに変わる時が、きっと訪れます。

深い悲しみ、苦しみを通してのみ、見えてくる世界があることを忘れないでください。

そして、悲しみ自分を、苦しむ自分を、そっくりそのまま支えていてくださる大地のあることに気付いて下さい。

それがお母さんの心からの願いなのですから。

お母さんの子どもに生まれてくれて、ありがとう。

本当に本当に、ありがとう。」


さらに、彼女は、死の前で、子どもたちに次のような手紙を送っている。


「お母さんは“無量寿”の世界より生まれ、“無量寿”の世界へと帰ってゆくものであります。

何故なら“無量寿”の世界とは、すべての生きとし生けるもの達の“いのちの故郷”そして、お母さんにとっても唯一の帰るべき故郷だからです。

お母さんはいつも思います。

与えられた“平野恵子”という生を尽くし終えた時、お母さんは嬉々として、“いのちの故郷”へ帰ってゆくだろうと。

そして、空気となって空へ舞い、風となってあなた達と共に野を駆け巡るのだろうと。

緑の草木となってあなた達を慰め、美しい花となってあなた達を喜ばせます。

また、水となって川を走り、大洋の波となってあなた達と戯れるのです。

時には魚となり、時には鳥となり、時には雨となり、時には、雪となるでしょう。


“無量寿=いのち”とは、すなわち限りない願いの世界なのです。

そして、すべての生きものは、その深い“いのちのねがい”に支えられてのみ生きてゆけるのです。

だからお母さんも、今まで以上にあなた達の近くに寄り添っているといえるのです。

悲しい時、辛い時、嬉しい時、いつでも耳を澄ましてください。

お母さんの声が聞こえるはずです。

『生きていてください、生きていてください』というお母さんの願いの声が、励ましが、あなた達の心の底に届くはずです。」


彼女の子どもへの愛情は、この世限りのものでなく、死をも超えてつながる真の愛情であると信じて疑わない。

その浄土は、生きとし生けるものの故郷であり、無量寿の世界であると彼女は受けとめている。

彼女は死後、自己の生命が自然のあらゆるいのちと一体となり、限りなきいのちとなって、子どもたちといっしょにずっと生きている。


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三人の子供を残して生を終える。

そこには、言葉には言い表せない、悲しみ辛さがあったことでしょう。

でも、死の直前までお母さんとして立派に生き、お母さんの励ましの声もきっとお子さん達に届く事でしょう。

死後も自然と一体となり一緒に生きているんですね。

愛情というものがこういうものだというのを学ばせて頂きました。

 

父と娘の愛に感動しました。

【ウエディングプランナーの素敵な話】


先日、お手伝いさせていただいた結婚式で

とっても素敵なキセキが起きました。


お父様のことがとても大好きなご新婦。


一足さきに海外で挙げた結婚式で、

お父様とバージンロードを歩いた時の幸せ

だったそのときの気持ちを嬉しそうに

何度もお話してくださいました。


バージンロードを歩くご新婦と

お父様のお写真も見せて頂き、

お父様の表情を見ていたら、

きっとお父様も愛する娘へ伝えたいお気持ち

がたくさんあるんだろうなぁと感じました。


花嫁の父こそきっと心に秘めた

様々な想いがたくさんあるはず。


でも、なかなか披露宴の中で花嫁の父が

想いを伝える機会はありません。


なければ、つくればいい。


というわけで、ご新郎のご協力のもと

ご新婦のお父様へ連絡をし、

愛する娘へ伝えたい素直なお気持ちをお手紙

につづってきて頂くお願いをしました。


照れくさくて無理、と断られるのも

覚悟していましたが、思いのほか、

「伝えたいことがたくさんありすぎて

うまくまとめられるかな・・」

という前向きなお答え。


披露宴当日、

お父様のお席へご挨拶へうかがいました。


「お手紙、、、書いていただけましたか?」


そんな私の質問に照れくさそうに

胸ポケットから取り出したのは、

くしゃくしゃの紙。


それは、何度も何度も書き直し、

読み返した跡の残る

くしゃくしゃになったお手紙でした。


そのくしゃくしゃの手紙を見た瞬間、

何だか色んなお父様の想いが伝わってきて

思わず胸があつくなってしまいました。


披露宴も終盤。

本来なら花嫁のお手紙の時間。


「ここで、新婦から感謝のお気持ちを込めて

ご両親へお手紙を・・

といいたいところですが、その前に・・」


お父様にスポットがあたります。


驚くご新婦。

ざわめく会場。

前代未聞の花嫁の父のお手紙の朗読です。


「娘が生まれるとわかった瞬間、

嬉しくて嬉しくて・・」


「幼いころはおてんばだった君、

怪我をしないか毎日気が気じゃなくて・・」


溢れ出す愛が溢れた想い出話に

新婦も会場のゲストも涙を流しながら

聞き入り、本当に温かい優しい空気が

会場を包んでいました。


そして、こんなエピソードが。



「君は小学生のころ、

学校でいじめに合っていました。


毎日泣きながら帰ってくる君。


学校に行きたくないと駄々をこねる君を

厳しく叱ってしまったこともありました。


けれど、君が眠りについた後、

厳しくしかってしまったことを

後悔しながら、君の寝顔を眺めながら

この子だけは何があっても

守り抜かなくては、


どんなことがあっても

自分はこの子の味方でいようと

頬を撫でて語りかけていたものでした。」



このエピソードが

お父様の口から語られた瞬間、

ご新婦は堰をきったように

顔を覆って涙されました。


その理由はすぐにわかりました。


いよいよ、花嫁からのお手紙。


そのお手紙の中に

なんとこんなエピソードがありました。



「私が小学生の頃、

学校でいじめに合っていました。


つらくてつらくて、学校に行きたくなくて

そうお父さんに伝えると

厳しく怒られたこともありました。


でも、泣きながら私がお布団に入って

しばらくたつと、

お父さんはそっと私の隣にやってきて、

私のほっぺたを何度も撫でてくれましたね。


その手があったかくて、優しくて、

とても安心して、

明日も頑張ろうと思えました。


お父さんはきっと今日まで私がすっかり

寝ていると思っていたと思うけど・・・

本当は私、毎晩、起きていたんですよ。


お父さん、あのときはありがとう」



そういって、

にっこりとお父様のほうに笑いかけるご新婦。


今度はお父様が顔を覆って涙される番でした。


何十年ぶりに魔法が溶けたように

明かされたある日の父と娘の素敵な記憶。


お父様からのお手紙とご新婦からのお手紙と

その両方のエピソードが重なった瞬間、

幼い新婦の頬を撫でて

優しく語り掛けるお父様と、

寝たふりをしながらそんなお父様の気持ちを

嬉しく感じている父娘の姿が、

その情景が鮮明に浮かんできて・・・


私は・・会場の隅のPA室の裏に隠れて・・・

涙が止まりませんでした。。。


会場もこの素敵な偶然のキセキに、

感動に包まれ父娘に、

贈る温かく優しい拍手が

しばらく鳴り止みませんでした。


そこにいる人のすべての心が

ひとつになった瞬間でした。






何があろうとずっと味方だよ、と心に決め、

すぐ近くで見守り続けた父の

娘への愛


一番つらい時期にずっとそばで見守ってくれた

父への思い


お互いの思いが重なった瞬間は

ほんとうに「キセキ」と呼びたくなるくらい

素敵ですね

ジーンと胸が熱くなりました


この話はたくさんの人に読んでほしいと思います

そして、心が温まったらうれしいです

笑いと感動のレシピ

【内緒のしるし】

小さな小さな頃。

お父さんと弟とファーストフード店に行った。

流行っていたポケットモンスターのカードが欲しいから

連れていってくれと弟と共に父に頼んだのだ


持ち帰りで父は注文をする。

「このハンバーガーとポテトをひとつずつ下さい。」

「ありがとうございます!」

ワクワク。カード!カード!

て、あれ?お姉さんはカードをくれない。

父が尋ねた。

「今ゲームのカードがもらえると聞いたのですが」

お姉さんは一瞬困った顔をしてすまなげに言った。

「申し訳ございません。ポケットモンスターのカードは

セットを頼んだ方への特典なのです…」

そんなぁ…

「仕方ないな…諦めようか。」

父が私と弟を諭す。

私も弟もだだをこねない。

家にお金がないことを分かっているからだ。

こども心にセットにしてくれと言えなかった…。

「進、諦めよう。ハンバーガーとポテトが食べられるんだから。」

「うん…お姉ちゃん。」

母が男を作りこども二人と借金を残して蒸発。

父が昼も夜も働いているお金の大切さを私も弟も分かっていた。

「重ね重ね申し訳ございません…ポテトを揚げるのに少々お掛けになってお待ち頂けますか?」

私達は店内の脇の椅子に座り商品を待った。

「お待たせしました!」

お姉さんが出てくる。

「ありがとう」

立ち去ろうとした時だった。

トントンとお姉さんに肩を叩かれた。

「はい。待たせちゃったから特別ね。」

手渡されたのはポケットモンスターのカード二枚…

「あ…」

お姉さんはニコリと笑って口に人差し指を当てた。

内緒のしるし。

「ありがとう!!」

すごく嬉しかった…。

その時のお姉さんに憧れて…

私は大学に入りファーストフード店でアルバイトを始めたのだ。

実は…私は男の子が苦手。怖い。

一度高校時代に…


見知らぬ男に犯された事があるのだ……。


それでも人は好きだ。接客業への夢は捨てきれずファーストフード店で働き始めたのだ。

大学の授業料を貯める目的もあったがやはり楽しかった。

ある時。

小さな女の子を連れた家族連れが店にやってきた。

「ハッピーセット!ハッピーセット!」

女の子ははしゃぐ。

プリキュアのオマケが欲しいようだった。

「はぁいどうぞ」

私は笑ってオマケの袋を女の子に渡す。

「ワァイ!ありがとう!」

女の子はワクワクして袋を開けた。

「あれ…?これかぁ…」

落胆している。

聞いてみた。

「どれが欲しかったの?」

「これ…」

金髪の女の子のフィギュアが欲しかったらしい。

あの時のお姉さんを思い出す。

私も…私もあの時のお姉さんのようにこの子の心に残りたい!

「すみません、休憩下さい!」

私は叫び裏口に回ってオマケをひとつひとつ破いていった。

金髪の女の子!金髪の女の子…!

10数個開けた時だった…

あった!見つけた!!!

私は客席に走った。

女の子を見つける。

トントンと肩を叩いた。

あの時のお姉さんの様に…

「あったよ!この子が欲しかったんだよね!!」

「あ…」

女の子は戸惑いながらそれを手に受け取って満面の笑顔を見せた。

「ありがとう!お姉さんありがとう!!ワァイ!」

やった…っ。

「すみませんわざわざ。ありがとうございます。ありがとうございます。」

女の子の両親に頭を下げられる。

「いえ…喜んで頂けて良かったです!」

破いたオマケは全て買い取った。

「お前お人好し過ぎだろ」

彼は笑っていた。

「いいの。私もこどもの頃に大切なものをもらったから…」

大学四回生。

私はアルバイトの中でもかなり上の立場に立った。

下の子を見守りながら指示を出す。

ある日うちの店にOCという幹部クラスの人が偵察に来ることになった。

「真壁。無様な姿は見せられない。しっかり店を回してくれ。」

「はい!店長。」

偵察当日…

現れたのはいかつい男性…かと思いきやまさかの華奢な女性だった。

この仕事は朝早くから夜遅くまでのシフト制…現場を乗り越えて幹部になっているのだ。

厳しく店を見て回るその河上さんと言う女性。

最後に私と店長に話をされた。

「この仕事は基本マニュアル重視です。
しかし…私は時にそこに人情が
入って構わないと思っているのですよ。
それを下のアルバイトの子達に伝えて下さい。
あれは私がまだ若く入社したての店員だった頃。
三人の家族連れがお店にやってきました。
三人というのに頼んだのはハンバーガーとポテトだけ。
身なりもお世辞にも裕福そうには見えなかった。
私は思いました。それでもこの店に来てくれたのだ。
こどもたちは当時流行っていたポケットモンスターの
カードが欲しかったようでした。
私は…!規則を破りカードをそのこどもたちに
そっと渡しました。後でカードの数が合わず
本当の事を話し叱られました…。
しかし!こどもたちは夢を持ってこの店に来ます!
その気持ちに!時に規則を外れた行為で
答えてあげることも大切なのではと思うのですよ……」


「ま…真壁!どうした!?」

私は泣いていた。

こんな形であの時のお姉さんに再会できるなんて……

「あ…あの時はあり…」

はっと気付いた。

あの時人差し指を口に当てた河上さん。

「ん?」

「ご!ごめんなさい!なんでもありません!私も同感です!!」


彼には全て話した。

「へ~え。話せば良かったのに~。
私があの時のこどもです。
あなたに憧れてここまできましたって。
その人喜んだんじゃねぇか?」

私は首をふった。

「いいの…。あの時の河上さんの気持ちを
私が忘れなければいいの」

家に帰ってこの奇跡を父と弟に話した。

「え!凄い!俺も覚えてるよ!」

弟がはしゃぐ。

「河上さん…だったかな」

え。

「嬉しかったからね。名札を見たんだよ、今でも覚えてる。」


河上さんは…寿退社することになった。

父に話すと

「百合、進。あの時のカードはあるか?」

二人とも机の引き出しに大切に閉まっていた…。

河上さんのお祝いアンドお別れパーティー

店長と私も招待された。


お開きになりかけたその時に…

父と弟がやってきた。

河上さんは首をかしげる。

私と弟は河上さんにすっとカードを差し出した…

「え……これ…」

父が続ける

「あの時のあなたの心配りに私達家族の気持ち
は癒されました。ありがとうございました。
あなたなら必ず幸せな家庭を築けます!」

「…ッ!こ…こんな事が……
嘘みたい……こんな…」

河上さんは泣き崩れた…。

訳の解らない周りの人達に
私はふっと笑って人差し指を口に当てた。

「…ですよね?お姉さん!」

「……ありがとう!こんな形で…本当にありがとう!」

河上さんは私を抱き締めていつまでも泣いた……



「な~んだ結局しゃべっちゃったんだな!」

「うん…お父さんがね…きちんと伝えたい
って言うから…でも良かったよ。」

「だろ?俺も言ったじゃん」

彼は笑った。






今日は初めて授かった娘を河上さんにお披露目に行く。

あれ以来プライベートでも親しくしているのだ。

「希ちゃんね!良かったわね!こどもが授かったのね!」

「はい。この歳ですし最後のこどもです…。大切に育てます…。兄弟を作ってやりたかっ…」

「こっち来なよ!遊ぼ!」

希の手を引っ張ったのは河上さんの長男だった。

「うちのバカ息子でよければお兄ちゃんになるわよ!」

「…はい!!」




河上さん…あなたにもらった愛は
私の心に確実に大きな足跡を残しました。
私達家族に小さく大きな愛をありがとう。

————————————-
1つのドラマのような再会ですね!

マニュアルがすべて正解ではない。

お客様がどうすれば喜んでくれるか。

それを一番に考えることができる人は

素敵ですね。

どうかこの優しさの連鎖を止めないで
くださいね。

有名人にまつわるいい話

あれから3年。
彼女のブログには、今もファンから多くのメッセージが届いている事をご存知だろうか。


2009年7月28日、38歳という若さで亡くなったシンガーソングライター『川村カオリ』さん。


『乳がん』という病と闘いながら、亡くなる直前までライブを続けた彼女。
その生き様は、亡くなった後も多くの人達に勇気を与え続けています。


『どうかブログを削除しないでください』という意見がファンから殺到

彼女が亡くなった日には約10’000ものコメントが殺到しましたが、
「ブログを削除しないで」との声が多く、今もスタッフや関係者により管理が続けられています。

彼女の誕生日であり、11年ぶりのソロライブを行った1月23日。
彼女の最後のライブを行った5月5日。
彼女が亡くなった7月28日。


今も多くのファンに勇気を与え続ける彼女の歌。
彼女のブログには、毎日沢山のメッセージコメントが寄せられています。


■自ら癌である事を公表した彼女の生き様

自分が27歳の時、母親が乳がんで亡くなった。」

「自分は33歳で乳がんになった。怖さを知っていたはずなのに、検診に行かなかった事をすごく後悔している。」

「全身には杭を打たれているような痛みが、一日中走っている。」

「まだまだやりたい事がたくさんある。」

「るちあ(当時7歳の娘)を残して死ねない。」

「治ったよって報告をちゃんとしてあげたいな。って。」


「自分の人生なんだけど、自分どうでもいいや、って。人の為に生きてたい。」

「人に残せるものって何だろうな、とか。」

「娘もそうだけど、何を伝えてあげれるんだろう。とか。」

「ステージに立ちたい。唄歌いたい。」


「今が無いと明日も無いので。」

「やっぱり今を一生懸命生きられる事っていうのが、凄く大切な事で。」

「頑張ったら頑張った分だけご褒美っていうのは帰ってくるものだと思うし。」

「色んな事経験したいな、と思うし。」

「自分の娘や孫に色んな事を教えてあげれる、おばあちゃんになりたいなあ。と。」


激しい痛みと闘いながらも、
抗がん剤を打ちながら富士山を登りきったり、倒れる直前まで3時間のライブを行った彼女。

るちあ(娘)がいなかったら、ここまで頑張れなかった。強くなかった。と、当時の彼女は語っていました。


22歳でとつぜん芸能界を引退し、それ以降15年封印してきたデビュー曲『ZOO』を彼女は歌った。どんな心境の変化があったのか。

最初ずっとクヨクヨしていて、自分の人生に裏切られた感じしました。」


「癌である事を受け入れる事ができなくて、癌である事が納得がいかなかった。」


「やっぱり4年、一生懸命生きてきたし、人として胸を張って生きてきたつもりだったし、ご褒美を貰えるんならまだしも、まさかこんな風になるとは。って。」


「そんな自分に光をくれた言葉が、「Let It Be」ありのままに。」(The Beatlesより)

「そっか、ありのままでいいんだ。って」


「ロックがどうとか、サウンドがどうとかじゃなくて、人に伝わる歌を歌いたいって気持ちが、もうあったの。」

「18歳の私が言う「愛をください」と、今の私が言う「愛をください」じゃたぶん、全然意味が違う。」

「”愛”っていう言葉一つに、あんなにたくさん意味があるとは思わなかったし。あの当時の自分は。」


かつて「Let it be」から勇気をもらったように、
「愛をください」で様々な事を伝えたい。

愛娘るちあちゃんも一番好きだという『ZOO』を、彼女は歌いました。


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☆川村カオリさんが愛娘に宛てたメッセージ

ママまた悪い虫が入っちゃった。いつも寝ててごめんね。

ママ…ずっと言いたい事があったんだ。
病気になってごめんね。

休みの日に、公園に行ったり、走ったり、騒いだり、してほしいこと、いっぱいしてあげられなくて、ごめんね。

ママの子供に生まれてよかったと言ってくれた日。ママは泣きました。

ママは歌うよ。これからもずっと。伝えたい事があるから。

これからも、歌っていいですか?


初恋はいつなんだろうね。ママに教えてくれるかな。

どんな仕事につくのかな。何でもいいよ。あなたが楽しいと思えるなら。

何歳で結婚するのかな。どんな母親になるのかな。

あなたの事を考えていると、時間があっという間に過ぎていく。

あなたと2人で居られた時間はママの宝物です。


ママね、あなたが生まれてきてくれて良かった。

ママにたくさんの事を教えてくれてありがとう。

ママの子供になってくれてありがとう。



『MY SWEET HOME ~君に伝えたいこと~』
当時のテレビ放送より引用。



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最後の最後まで、倒れる直前までステージに立ち続けた川村カオリさん。


彼女の左胸を奪った乳がん。
自ら手術後の写真をエッセイに掲載し、世の女性に乳がんの恐ろしさを伝えた彼女。

あまり知られていないのかもしれませんが、女性の20人に一人は乳がんになる可能性があるとされています。

なので少しでも多くの方が早い段階で
検診に行き、乳がんを防いでいただければと思います。

良かったら世の中の女性にシェアをして広めて頂ければと思います。