鈴鹿市 美容院 ヘアサロン カットハウスサロック

~世界の良い話~

「天国のオカンへ」


おかんへ、あなたはとてもユニークな人でしたね。

俺が1兆個のギャグがあると言うと、私には2兆個あるで。

何て嘯いて。代表ギャグは「どすこい、どすこい、ネギちょうだい」かな。

親子で色々な番組に出せてもらいましたね。

今思えばFUJIWARAとして大事な時期には、いつもオカンのキャラに助けられていたような気がします。


2008年の暮れ、大阪の実家から1本の電話が掛かってきました。

親父からでした。朝起きたら、おかんが冷たくなって動かない。

たぶんダメだと思う…。というものでした。心筋梗塞。

突然の訃報。一瞬で体の血の気が引いていくのがわかりました。

2日前大阪のバラエティー番組で共演したばっかりだったから、頭の中を整理するのに時間が掛かって。

しばらくして、すごい罪悪感が襲ってきました。

日ごろからもっとやさしく接しておけばよかった。

いつからか、おかんと会うのは仕事で共演する時ばっかりになってましたね。

色んなバラエティーに出るうちに、おかんへのハードルが上がって、俺自身ももっとできるだろうと、ダメ出しばっかりしたり、

親子漫才のネタ合わせでイライラしたり、芸人扱いしてしまっていましたね。

考えてみたら、親孝行せなだめな年なのに、いつまでも親の脛をかじって。情けないです。ごめんな…。


でも、おかんはテレビに出ること自体はすごく楽しみにしていたよね。

特にリンカーンでは、大竹さんとキスしたり。おかんメインのスペシャルを組んでもらったり。

大好きな浜田さんにもいっぱい突っ込んでもらったな。

そういえば天国から見てたかもしれないけど、松本さんがおかんが亡くなってすぐに仏壇に手を合わせに来てくれはったんやで。


おかんミーハーやから、嬉しいやろ!もう、3回忌も過ぎたのに、いまだに著名人の方が「おもしろいお母さんだったね」と言ってくれます。


その度におかんの偉大さを痛感します。

それからは脛をかじらずに、がんばっていきますね。あなたは私にとって、最高の母であり、3人目のFJIWARAでした。これからも天国で見守っていてください。



出典:泣ける!リンカーンで語られた芸人たちの6つの感動エピソード




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テレビに出ること自体が好きだったお母さんも本当は

息子を常にそばで見れるということが一番嬉しかったのかも
しれませんね。

いつもお茶の間に笑いを提供してくれるFUJIWARAに今後も

どんどん活躍してほしいです。
 

涙が止まらない

やなせたかし先生が「アンパンマン」
に込めた哲学がすごすぎる!

「アンパンマン」の生みの親、
92歳でも現役のやなせたかし先生が、
アンパンマンに込めた哲学が
すごいのでまとめてみました。


アンパンマンを生んだ、過酷な戦争体験


行軍したり、
泥だらけになってはい回ったりするのは、
一晩寝ればなんとかなる。
ところが、飢えはどうしても我慢できない


食べられないというのは、
ものすごくきついですよ。


飢えれば人肉だって食べようという
気持ちになるんだから


仕方がないんで、
その辺の野草を煮て食べたりしたんです。
まずいのもあるんだけど、大体は酸っぱいんです


内地に残っていた銃後の
国民のほうがよほどつらい目を見ている。
たとえ、戦火に逢わなかったとしても
飢えに苦しんでいる


正義のための戦いなんてどこにもないのだ。
正義は或る日突然逆転する。正義は信じがたい


逆転しない正義とは献身と愛だ。
それも決して大げさなことではなく、
眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、
その人に一片のパンを与えること


自分はまったく傷つかないままで、
正義を行うことは非常に難しい


正しいことをする場合、
必ず報いられるかというと、
そんなことはなくて、
逆に傷ついてしまうこともあるんです


ぼくらも非常に弱い。
強い人間じゃない。
でも、なにかのときには、
やっぱりやってしまう。
ヒーローというのは、そういうものだと思います


困っている人、飢えている人に
食べ物を差し出す行為は、
立場が変わっても国が違っても
「正しいこと」には変わりません。
絶対的な正義なのです


なんのために生まれて
何をして生きるのか
これはアンパンマンのテーマソングであり、
ぼくの人生のテーマソングである





生きていることが大切なんです。
今日まで生きてこられたなら、
少しくらいつらくても明日もまた生きられる。
そうやっているうちに次が開けてくるのです。
震災も永遠に続くことはありません


アンパンマンは“世界最弱”のヒーロー。
ちょっと汚れたり、雨にぬれただけでも、
ジャムおじさんに助けを求める。
でも、いざというときには、
自分の顔をちぎって食べてもらう。
そして戦います。


それは私たちも同じ。
みんな弱いけれど、
そうせずにはいられないときもあるのです


アンパンマンのテーマソングは

「なんのために生まれて、
なんのために生きるのか」というのですが、

実はぼくはずいぶん長い間、
自分がなんのために
生まれたのかよくわからなくて、
闇夜の迷路をさまよっていました

もっと若い時に世に出たかった。
ただし遅く出てきた人というのは、
いきなりはダメにならない。

こんなことしてて
いいのかと思っていたことが、
今みんな役に立ってる。
無駄なことは一つもないですね


ぼくら夫婦には子供がなかった。
妻は病床にアンパンマンのタオルを積みあげて、
看護婦さんや見舞い客に配っていた。

アンパンマンがぼくらの子供だ

人生の楽しみの中で最高のものは、
やはり人を喜ばせることでしょう

=====

「さあ、ボクの顔を食べて…」

お腹がすいた人に顔を差し出すアンパンマン。
それにはここまで深い意味があったんですね。

「なんのために生まれて、
なんのために生きるのか」

これは一生のテーマかもしれません。
すぐ答えを出すのはカンタンではありません。

でも、美味しいものを作って一緒に食べることなら
今日からでもはじめられる。

子供、家族、友人、恋人。

ただ食べていくのではなく

「誰と食べるのか」

一生のうち、食事の回数は限られています。

だから、ただお腹を満たすだけではなく
大切な仲間、家族と食べたい。
楽しい時間を過ごしたい。

私は、かつて若い頃

「人を喜ばせたいなんて、偽善。」

と思っていました。

でも、親も年老い、妹が病に倒れ
私自身にも大切な人ができ

はじめて気付いたのです。

一緒にいられる残りの時間を
大切に、過ごしたい。

と。

だから、考えていきたい。
どうすれば、人を喜ばせられるのか。

喜んでもらえる生き方ができるのか。

アンパンマンに込められた思い
もっとたくさんの人に知ってほしいです。

涙が止まらない

兄は俺らの為に働きまくった

両親は俺が中2の時、交通事故で死んだ。
俺には4つ上の兄と5つ下の妹がいる。

両親の死後、俺は母方の親戚に、
妹は父方にひきとられて、
兄は母方の祖父母と住んでいた。

それから一年くらいたって、
久しぶりに兄から電話があった。

そん時、高校を卒業して就職が見つかったから、
兄弟3人で暮らさないかという旨を言われた。

俺はびっくりした。
兄は俺とは違い昔から頭が良くて、
当然1流の大学に行くんだろうと思ってたからだ。

俺は兄に大学はいいのか?
と聞いたが、兄は
「全滅やったから(笑)そこは触れんといて」
なんて事を言ってた。

俺は中3だし、妹はまだ小3だったため当然、
親戚中は反対してたが、俺も妹も、
ホントはまた兄弟一緒に暮らしたい
と思ってたから頼み込んで許してもらい、
晴れて兄弟3人一緒に住むことができるようになった。


それからというもの、
兄は俺らの為に働きまくった。
俺らが貧乏なんて感じることないようにと、
ずっと皆一緒に暮らすんだと、
昼と夜も別々の仕事して稼ぎまくって
俺らに小遣いまでくれてた。

そんな兄が先月、交通事故で逝ってしまった・・・

葬式で俺も妹も泣きじゃくった。

葬式も一通り片付き皆が帰った後、
別室にいた俺と妹のところに、
叔母が夕飯をもってきてくれて、
その際、俺らは兄について
衝撃の事実をしることになった。

両親の死後、兄が親戚中に土下座し、
俺と妹の事よろしく頼むと言ってまわってたこと。

兄がバイト代を毎月送り、
俺と妹の小遣いにしてやってくれと頼んでたこと。

京大を蹴って、
俺らと一緒に住むために就職したこと。

・・・それきいた途端、
もう分からんくらい泣いた。立てなかった・・・

色んな兄ちゃんとの思い出が駆け巡った。

小さい頃、俺の手をつないで、
いっつも遊んでくれた・・・
強くておもろくてやさしかった・・・
自分の小遣いからお菓子買ってくれてた・・・

俺が高校行かんって言ったら
ぶち切れて殴ってでも行かせるって言った・・・

いつもボロボロで疲れてても、
俺らに八つ当たりなんてしなかった・・・

自分の夢を捨てて、
俺らのために必死やった・・・

おとん、おかんが死んだ時、
泣きじゃくる俺と妹を抱いて、
がんばれって言って
俺らの前では涙ひとつ見せんかった・・・

俺ホントは兄ちゃんが夜中、
泣き声をおしころして泣いてたの知ってたよ・・・

やべえ思い出して・・・もうこれ以上書けねえわ
何もできんかったわ・・・
ホントなんも・・・
最後に言わせて。

最強最高の兄ちゃん!!!
あんたに負けんこと俺がんばるけん!

妹のことも心配せんでいいけんね。
ありがとう。ありがとう!!!

引用元:
http://kokorodo.net/e2420

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涙が止まりません。
強いお兄ちゃんですね。

こんなお兄ちゃんをもった弟、妹さんは
幸せでだったでしょうね。

お兄ちゃんの優しさや強さを引き継ぎ
力強く生きていってほしいと思います。

~世界の良い話~

「天国のお兄さん」



今日は兄の誕生日だ。私より10才年上の兄は、
私が10才の時に両親を事故で失って以来ずっと私を育ててくれた。

兄は私を育てるために大学をやめ、働きながら私を育ててくれた。

口癖は「お前は俺の半分しか父さんや母さんとの思い出がないんだから」だった。

授業参観にも学校祭にも体育祭にも三者面談にも、いつも兄が来てくれた。

周囲のおばさま方の中で、明らかに兄は浮いていたが
それでもいつも兄は会社で休みをもらって学校に来てくれた。

初めて作った料理とも言えないようなものを、美味しいと言って全部食べてくれた。

仕事で疲れているだろうに、家に帰ってきてから私の学校での話を聞いてくれたり

宿題を見てくれたり、学校への連絡ノートも毎日欠かさず書いてくれた。

土日も私と遊んでくれて、色々なところへ連れて行ってくれた。

そんな兄には自分の時間なんてなかったように思う。

友達のを見て、お団子ヘアにして欲しい、友達のお母さんならやってくれたと、

わがままを言った時慣れない手つきで一生懸命作ってくれたのに、 こんなんじゃない、お母さんに会いたいとと兄をなじってしまった。

兄はそれを聞いてごめんと泣き出してしまった。あの姿を思い出すたびに、 兄も両親を事故で失った子供だったんだと今でも泣きそうになる。

その兄が、一年前両親と同じように事故で突然この世を去った。
兄が死んだ時、私は兄が両親を失った時より一才年上だった。

兄はこの状態でまだ小学生の私を育ててくれたのかと思うと、
それがどれだけ大変だったかと思って涙が出る。

兄は私がいたせいで友達と遊びにも行けなかった。
恋人も、出逢う暇さえ私が奪ってしまったんだ。

たくさんたくさん、ごめんなさいとありがとうも言えないままだった。


「ちゃんと幸せになれ」っていつも言ってくれたけど、
兄の幸せはどこにあったのだろう。今も考えてる。

もう兄に何も返すこともできないけど、兄のおかげでここまで来れた人生、 恥ずかしくないように生きられるように頑張ろうと思う。


お兄ちゃん、天国で見ててね。
今からでもお父さんとお母さんに甘えてるといいな 。



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妹のためなら何でもやってあげられるのでしょうね。

妹が幸せになってくれたら嬉しいという気持ちの方が先行しているのでしょうね。

素敵なお兄さんです。

このお兄さんのように両親や兄弟に対してなら何でもやれる、やったことがあると少しでも共感していただけたらシェアお願いします。
 

涙が止まらない

【些細な喧嘩】


2年間同棲していた彼が他界した。


大喧嘩をした日、交通事故に遭った。
本当に突然の出来事だった。


その日は付き合って
3年目の記念すべき夜だった。


しかし、仕事が長引いてしまって
約束の時間に帰宅する事ができず、


せっかく彼が用意してくれた
手製の料理が冷め、台無しになってしまった。


いつも通り軽く詫びを入れて
事を済まそうとしたが、
その日の彼はいつもとは違い、
私に対してきつくあたった。


丁度その時私は気分も優れず、
仕事のストレスもあってか、
そんな彼と話していくうちに
強烈な憤りを覚え、つい言ってしまった。


「もういい!
こんな些細な事で
そこまで怒る事ないでしょ!


あなたは自分の都合でしか
物事を考えられないの!?」


…彼は黙った。
少しの間の後で、
私も少し言い過ぎたと思い、
黙って席を立ち、
界隈を散歩して頭を冷やそうと思い、
一旦家を出た。


いつも通う小さな喫茶店で、
30分少々の時間を潰した。


あの人もただ単に怒りに任せて
私に怒鳴り散らした訳じゃない。


それだけ今日のこの日の事を
大切に思っていたからこそではないか、と考えた。


そんな彼の気持ちを思うと
明らかに私の振る舞いは最低だった。


身勝手な自身を忘れ、
改めて彼に謝ろうと思い、
家に向かって歩いた。


しかし、彼は家には居なかった。
料理も、携帯電話も、机に置いたままだった。


マメなあの人が携帯電話を忘れるのは珍しく、
近くにいるのかと思い、私は家を出て


近辺を歩き回った。
しかし見つからない。
公園や近くの空き地も見たが、
彼の姿は無かった。


彼の実家や、携帯を調べ、
彼の友人宅等にも電話を入れたが、
来ていないと言う。


家に帰り、2時間が経過した。
私はその時考えていた。
帰ってきたら頬をつねってやろうと。


幾らなんでも心配させすぎだ、悪戯が過ぎる、と。
明日は休日だからこんな事をするんだろう、と…


それが彼との最後の夜だった。


事故現場は家周辺の一方通行の十字路だった。
横から飛び出してきた車と衝突、
即死だったそうだ。


時刻はPM10:20、
丁度私が家を出て10分経過した時間だった。


その際彼が持っていた遺品は、
缶コーヒー1本、
女性用のガウンジャケット、
現金で120円だということを聞かされた。


私のガウンジャケット、
まだ未開封の缶コーヒー、
私の為のジュース代。


細やかな気配りの中に、
彼の深い愛情と優しさが感じられた。


一緒に帰りたかった。
その言葉を心の中でつぶやいた。
同時に私の目から涙がとめどなく溢れた。


改めて、彼という存在の大きさに気付いた。
ただ、情けなくて、悔しかった。


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あの日、もし喧嘩をしていなかったら


運命は変わっていたかもしれない。


どのタイミングで


その分岐点がくるのかもわからない。


だから、いつ、その運命がきたとしても


後悔しないように


目の前のひとを大切にしたいと思った。